I.J.N Tin'en
仇敵から縁の下の力持ちへ
<使用キット>
工房飛竜 二等戦艦鎮遠
<実艦解説>
「鎮遠」は1985年(明治18年)に独フルカン社で、清国の発注により竣工しました。
当時の欧州では中型の装甲砲塔艦に分類される「鎮遠」ですが、東洋では最大最強の戦艦でした。特に、海軍が発展途上だった日本海軍では、対抗できる艦が無いことから脅威とされました。明治19年と24年の「親善訪問」と称して、姉妹艦の「定遠」と共に来日し、日本国民にも強い印象を与えました。
日清戦争までの日本海軍は、「鎮遠」「定遠」を倒すために整備されたと言っても過言ではなく、いわゆる三景艦がその筆頭です。
■日清戦争、黄海海戦、清国北洋水師の最期
さて、懸命の努力にもかかわらず日本海軍は日清戦争の開戦時までに、「鎮遠」に匹敵する艦を保有する事は出来ませんでした。
明治27年9月17日、清国北洋水師艦隊と日本連合艦隊はついに激突します。いわゆる黄海海戦です。
東洋での初の近代的な海戦であり、衝角戦重視の単横陣VS機動力重視の単縦陣の海戦でもある黄海海戦。様々な研究がなされていて諸説ある海戦ですが、結論だけいえば清国北洋水師艦隊の敗北でした。
「鎮遠」の水線部 で355mmに及ぶ装甲は貫通されず、主砲の30.5cmは大きな脅威になりましたが、それだけでした。清国艦艇間の信号伝達の不備、一部艦艇の士気不足が原因と言われています。
この海戦以降、清国艦艇は威海衛に逼塞し、その後一度も海上に出撃しませんでした。それどころか、日本水雷艇の夜間強襲雷撃によって「定遠」が沈没するなど大損害を受けます。 「鎮遠」も損傷、座礁した状態で清国海軍は降伏。
■日本海軍へ…
「鎮遠」は清国海軍の降伏後、日本海軍に鹵獲されます。
日本初の戦艦とされる「扶桑(初代)」は実質的に装甲コルベットのため、「鎮遠」が日本初の近代的戦艦とする説もあります。いずれにせよ、「富士」型戦艦が登場するまでは日本海軍の最強艦でした。
日本海軍に編入後は、横須賀工廠で復旧、整備工事が行なわれたました。その際損傷箇所の修理と共に兵装関係など、若干の改装が施されましたた。
新造時の兵装は、中央部の30.5cm連装砲搭2基と、艦首と艦尾に各1基装備した15.2cm単装砲でしたが、復旧時には後檣の両舷に15.2cm速射砲をを1基ずつ増備。47o速射砲10門、水上式魚雷発射管3基、艦首水線下のラムなどが新設されました。
日露戦争時には低速の旧式艦とされ、かつてのライバルの三景艦と第3艦隊第5戦隊を組織。後方での警戒や、偵察任務にあたり、地味ながらも働き続けました。日本海海戦時にはバルチック艦隊の偵察を行い、その特異な艦容をバルチック艦隊の前に見せています。
戦後は、一等海防艦、運用術練習艦などになった後、明治44年4月1日に除籍。鞍馬の射撃実験の標的となり、翌45年売却、横浜で解体されたとされています。
ただ、西日本を中心に広く 「鎮遠」の遺物が残存。その船体の一部が商船として再利用された説もあるなど、興味深い最後になったようです。
在であった英国のインフレキシブル
<模型解説>
レジンキットの老舗、工房飛竜の製品で中古で購入しました。
レジンキットの宿命でもありますが、船体の反り返りが大きく、モールドもダルめのキットでした。
まずは、小型のガストーチを使って船体の反り返りを修正後に、ピンバイスで舷窓開け。…実は、コレがミステイクのようで。キットには舷窓部分に四角い凸モールドがあり、これに違和感を持って舷窓開けをしたのですが。「鎮遠」の実艦写真をよく見ると、窓には四角い蓋があるのです。…そう、この頃の軍艦は二次大戦中の軍艦のような丸い舷窓ではないのです。
まあ、開けてしまったものは仕方が無いので、気泡のパテ埋め後にレジンプライマーを塗布。
主要パーツ以外は入ってないので、通気筒、副砲等はシールズモデルの「三笠」を作った時の余りを流用。
艦上のボートデッキをプラ板で作って、WL共通パーツのカッターを搭載。
アンカチェーンは、市販の極細を使用。マストは、説明書を参考に日本海海戦時のシンプルな構成の物を真鍮線で製作しました。
■「三笠」と「鎮遠」
両艦ともに、日本海海戦時の想定です。
共に出現時は、東洋最強を謳われていました。ただ、日本海海戦の時は「三笠」は一等戦艦。「鎮遠」は二等戦艦。その戦力差は歴然としていました。
■要目(日本海軍編入時)
■排水量:7,220t(常)
■全長:91.0m
■全幅:18.3m
■出力:6,200馬力
■最大速力:14.5kt
■乗員定数:407名
■武装:20口径30.5cm連装砲2基、40口径15.2cm単装砲4基、47mm単装砲10基、37mm単装砲2基、36cm魚雷発射管3門