北洋水師 巡洋艦 済遠

The Imperial Chinese Navy Tsi Yuen
逃げの名人


 <使用キット>
 SModel 「済遠」

 <実艦解説>
 「済遠」は、清国海軍がドイツのフルカン社に発注し、1895年に就役しました。設計は「定遠」も手掛けたRudolph Haackのもので、清が発注したはじめての装甲巡洋艦とされています。建造中に英国人技術者に、設計上の欠陥があると指摘されているようですが、詳細は分かりません。ただ、実験艦的な側面はあったようで姉妹艦はありません。
 
 ■「逃げの名人」としての日清戦争
 朝鮮半島の権益をめぐって勃発した日清戦争。その開戦の場に「済遠」はいました。
 1894年7月25日、朝鮮の北西岸豊島沖に陸兵を輸送する輸送船「高陞号」の前衛として行動していた「済遠」「広乙」は、日本巡洋艦「浪速」「秋津洲」「吉野」と遭遇し、戦端を開きます。
 「済遠」は前部の21cm連装砲で抵抗しますが戦力差は覆せず、「済遠」は逃走を開始。このさいに白旗を何度もあげたり、僚艦「広乙」を見捨てる形になるなど、問題な行動はあるものの逃走には成功してます。また、日本側はイギリス船員が乗る「高陞号」を撃沈し、国際問題になりかけています。
 さらに、9月17日の黄海海戦においても「済遠」は戦場から逃走します。
 この海戦で「済遠」は単横陣を組んだ清国艦隊の左翼に位置。激戦となった右翼と違い、序盤では戦闘にあまり寄与していません。
 単縦陣で清国艦隊の前面を横切った日本側が、回り込んで「定遠」「鎮遠」と激戦に入った時、「済遠」は、またも無断で逃走を開始するのです。
 これに関しては、「済遠」艦長の方伯謙が艦隊現存主義を海戦前から唱えていたたの説があります。清国艦隊が消耗して日本側の朝鮮への補給路に脅威を与えられなく事を回避しようとしていたというのです。いずれにせよ、黄海海戦は日本の勝利で終わり、「済遠」艦長方伯謙は翌日銃殺されています。

 ■日本艦としての最後
 「済遠」は日清戦争後に日本側に鹵獲されて編入されます。艦船の進歩が著しいため、巡洋艦ではなく三等海防艦に分類され、後方支援が主な役割でした。
 最後は、203高地の攻略支援中の1904年11月30日に触雷して沈没。その数奇な艦生を終えてます。
 



 <模型解説>
 最近、清国北洋水師艦隊を精力的に開発してるSModelの製品です。
 「済遠」は姉妹艦も無い上に、近代海戦史上珍しい軍艦の敵前逃亡をおかした艦なのでモデル化するとは意外でした。このままの勢いだと、北洋水師艦艇を全てモデル化しそうです。
 キットは砲塔カバーをつけた日清戦争前の状態と、黄海海戦時の砲塔カバーを外した状態を選択できるようになっています。
 エッチングパーツや真鍮砲身も標準でついてることもあり、今回は砲塔カバーをはずした状態にしました。陸上の重砲のような前部の21cm連装砲の威圧感がでたように思います。
 塗装は、船体はジャーマングレー、艦上構造物は軍艦色。マスト・煙突は、カーキでくすませたクレオス113です。

■「三笠」と「済遠」
 「済遠」は装甲を持った初期の装甲巡洋艦でしたが、わずか10年で旧式化しました。「三笠」は戦艦ですが、装甲・武装の進化による艦の大型化を知る一助になれば。

















 ■要目(1884年)
 ■排水量:2,355t(基)
 ■全長:72m
 ■全幅:10.5m
 ■出力:2,800馬力
 ■最大速力:16.5ノット
 ■武装:35口径21cm連装砲1基、35口径15cm単装砲1基、47mm単装砲2基、37mm単装砲9基、38.1cm魚雷発射管4基

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