重巡洋艦 最上
I.J.N. Mogami
衝突癖のある索敵巡洋艦
<使用キット>
タミヤ 航空巡洋艦最上
<実艦解説>
「最上」は、1935年7月28日に、呉海軍工廠にて@計画に基づいて竣工しました。
「最上」級は、ロンドン軍縮条約で8インチ砲搭載艦の数が制限されたため、6.1インチ(15.5cm)砲を搭載する軽巡として作られました。
当初搭載された15.5cm砲の威力不足を艦隊側から指摘されたこともあり、1940年4月に20.3cm砲に換装しています。
■開戦
「最上」級は第七戦隊を編成し、全艦が南方攻略作戦に参加。
「最上」は姉妹艦の「三隈」と共にバタビヤ海戦に参加。米重巡「ヒューストン」、豪軽巡「パース」撃沈に貢献しています。もっとも、その前に発射した魚雷が、味方輸送船に命中。特に、今村軍司令官が乗る上陸輸送船「神州丸」を沈めてしまうという失態も犯しています。
42年4月には、インド洋で通商破壊作戦も行っています。
■一度目の衝突
42年6月のミッドウェー作戦。「最上」級は全艦揃って参加しますが、敵潜からの攻撃回避中に「最上」と「三隅」が衝突。
損害軽微だった「三隅」が護衛しての避退中に空襲を受けます。この攻撃で「三隅」は沈みますが、「最上」は持ち前の強靭な船体と乗員の努力により、トラック基地に帰りつきます。
■「航空巡洋艦」への改装
損傷修理に合わせて、「最上」は後甲板を航空作業甲板にして水上機の運用能力を高める改装を受けます。これは、空母戦のときに索敵には空母機よりも、巡洋艦等の水上機が有利という意見が出たためです。
この改装により、「最上」は最大11機の航空機の運用能力を持つことになります。また、「瑞雲」の運用を見越して、燃料と弾薬を旧主砲弾薬庫に搭載。対空兵装の強化と、燃料搭載量の増大も合わせて行われました。
なお、航空巡洋艦とは俗称で、当時の海軍では索敵巡洋艦と呼称されたようです。
■レイテ沖へ
改装なった「最上」は43年7月頃から、南方作戦に従事。11月のラバウル空襲で損傷し、この修理の際に25mm単装機銃が8基増備されたと言われます。
その後、44年6月の「あ」号作戦に参加。翌7月の改装で、さらに25mm機銃を増備した後にレイテ沖海戦に参加します。
レイテ沖では、西村部隊の1艦としてスリガオ海峡からのレイテ湾突入を目指しました。
当初は、空襲も軽微な損害で乗り越え、「最上」の偵察機が貴重なレイテ湾の敵情把握に成功するなど、順調な進撃を果たします。
しかし、栗田部隊の突入遅延にも関わらず、レイテ突入を強行した西村部隊は、米海軍の熾烈な反撃を受けます。
■米魚雷艇群を迎撃する「最上」
「最上」と駆逐艦が「山城」「扶桑」に先行し、魚雷艇の掃討に当たりました。そのかいもあり、被害ゼロで乗りきります。…もっとも「扶桑」の誤射を「最上」は受けたようですが。
■二度目の衝突
魚雷艇の攻撃こそ乗り切ったものの、続く駆逐艦の雷撃で「扶桑」が沈没し、駆逐艦3隻が脱落。
なおも進撃する「山城」「最上」「時雨」には、戦艦6隻を中心とするオルデンドルフ艦隊の射撃が降り注ぎました。「ペンシルヴァニア」等、射撃が不正確な艦もいましたが、3艦に命中弾が相次ぎます。「山城」が沈み、「最上」も艦橋に被弾したため、後退を開始。
なんとか離脱に成功しますが、後続してきた志摩部隊の「那智」と衝突。さらに空襲もうけたため、ついに「曙」の雷撃で処分されて波間に姿を消しました。
<模型解説>
webで開催の「第二次巡洋艦祭り」に参加すべく、貰ったまま積んでいた「最上」の製作を開始しました。
タミヤ製だけあって非常に組みやすいキットなのですが、上部甲板が全て鉄甲板だったり、レイテ沖海戦仕様にするには銃座を追加しなければならないなど、手がかかる場所もあります。
今回は、早期完成を目的としたため、「あ」号作戦時の仕様としています。
エバグリのプラ棒で外舷電路の再現。舷窓の閉鎖。
防水扉、応急舵、21号電探に在庫のエッチングを使用。
艦尾に、真鍮線で大型アンテナ追加。
飛行甲板に、追加装備されたという25mm機銃を装着。
…この程度しか手を加えていません。しかしながら、元のキットがいいためにスマートに、かつ短期間で仕上がり、積み解消という目的は達せられたように思います。
■要目
■排水量:12,200t(基)
■全長:200.6m
■全幅:18.9m
■出力:152,000馬力
■速力:35.5ノット
■搭載機:11機
■兵装:50口径20.3cm連装砲3基、40口径12.7p連装高角砲4基、25o3連装機銃10基、同単装8基(「あ」号作戦時)