サウザンド・レイン 〜ダイジェスト版〜
駆逐艦「千雨」戦記
1944年10月。大日本帝国は、控えめに言っても瀕死の体であった。
10月のレイテ沖海戦にて、敗北。米艦隊に打撃が与えられなかったばかりか、レイテ島に橋頭堡を築かれた。これにより、南方の資源地帯と日本本土の補給ラインは深刻な脅威に晒されることになる。
この比島戦初期の水中破壊部隊(UDT)による強行偵察作戦援護時に損傷後、鹵獲されたアレン・M・サムナー級がある。レイテ沖海戦の混乱に乗じ、ルソン島のキャビテ軍港に回航。
この艦が、話のメインになる駆逐艦「千雨」となるのである。
その後、マニラ湾空襲時に着底した艦や、マニラに運び込まれたまま放置されていた装備品により再武装され、「千雨」と命名される。また、日本軍からすれば「魔法のアイテム」にしか見えないMk37射撃指揮装置とMk12射撃レーダー、SRレーダーも復旧に成功している。同時にマニラにいた沈没艦の乗員により、急速に戦力化が進めれられた。
一連の作業は、連合艦隊から現地に派遣されていたある大尉がとった。この大尉は、かねてから迷彩塗装や電探の研究を行っていた。しかし、迷彩など「仮装」のようでみっともないという艦隊の雰囲気があったため、ひっそりと裏側で行うにとどめていた。大戦末期に、慌てて海軍艦艇に迷彩が施されたのを見て「ド素人どもが、そんな(効果の)薄い迷彩をして、どうなる」と手をつい出す場面もあったようだ。
昭和20年になっても「千雨」の戦力化は完了していなかったが、事態は急変する。ルソン島に米軍が上陸。うかうかすると、脱出できなくなってしまう。とはいえ、このままでは「もとから性能がいい」米艦には敵わない。「リスクの高い勝負はしない主義」の大尉としては、艦を放棄して逃走するのが上策であった。
だが、中立国籍の外国人女性教師に残留した生徒の脱出を頼まれてしまう。さらに、2月前に、レイテ島で偶然遭遇した米海軍将校との会話がよぎった。(両者とも乗艦が撃沈されていたのだ)山賊と化したゲリラから逃亡する際に知り合ったのだ。その将校も電波戦の専門家であったため、意気投合して共闘してゲリラから逃亡したのだ。そして、別れ際に
「あんたと戦うのは面白そうだ」
という言葉で別れたのだ。心から分かり合えた、良き敵への賛辞である。
自らを理解する最高の敵と戦えるかもしれないという衝動。
さらに、守るべき者の存在。
こらら二つのために、主義に反して行動をおこした大尉の動きは早かった。
混乱に乗じて、1日で補給を終え、乗せられるだけの民間人を乗せると、ぶっつけ本番で夜闇に紛れ出航。幸い、乗員には連合艦隊の精鋭たる戦艦「武蔵」の生き残りなどがいたためスムーズに北上を開始。
事前に米海軍のSRレーダーに合わせた逆探と、SRレーダーを駆使し、哨戒網を潜り抜ける「千雨」。
だが、夜明け前。
運悪く、上陸支援の旧式戦艦群と、護衛の水雷戦隊に鉢合わせてしまう。
さらに、水雷戦隊の中には件の将校が艦長の駆逐艦の姿もあった。
ゴリアテとダビデの戦いよりも、両者の質量は隔絶していた。
しかし、「千雨」は煙幕を展張し、米海軍のレーダー波に合わせたチャフをばら撒く。
不規則に速度、進路を変え戦艦群の砲撃をかわす「千雨」。
速度差が10ノット以上あるため、戦艦群とは次第に距離が開く。
それまで待機していた米駆逐艦群が、ようやく突撃を開始すると、「千雨」も駆逐艦群に対し突撃を開始。
煙幕とチャフ、さらには魚雷発射にみせかけた欺瞞行動で、隊列を乱し、発射速度の速い12.7センチ高角砲でダメージを与えていく。
さらに、件の駆逐艦との一騎打ちで相手を撃破。
最後の最後でようやく放った酸素魚雷は、、旗艦の駆逐艦に命中。
これにより、「千雨」は至近弾の破口だらけになりながらも離脱。
日中は、運よく来たスコールの助けもあり、航空攻撃にさらされずに香港に辿り着いたのであった。
その後、「千雨」は、日本本土へ回航されること無く香港で係留され、戦局には寄与しなかったとされる。
しかしながら、「千雨」が運んだ民間人や乗員は無事に内地へ帰還したようである。
「千雨」そのものは、終戦後中国に接収され消息不明である。